創業者:小久保政夫
日本が戦後の混乱からようやくぬけでようとしていた昭和26年、小久保政夫はキリスト教専門の葬儀社、栄光式典社をたちあげました。
当時、葬儀といえば仏式中心の葬儀社がほとんどであった為、キリスト教の葬儀をおこなう際、仏式と区別できるような飾り付けをおこなうことに困難をともないました。
特にプロテスタントの教会には、まださだまった飾り付けも葬儀のノウハウもなかった為、葬儀のたびに仏式の葬儀社に頼らざるをえませんでした。
「キリスト者が営む、キリスト教専門の葬儀社があれば・・・。」
日本キリスト教団東京教区の信徒会にとって、そのことが大きな課題でした。
ジョン・F・ケネディ米国元大統領
追悼ミサ (1963年11月)
聖イグナチオ教会 旧聖堂にて
■施工:栄光式典社
この新事業をおこす人材をもとめ、信徒会は霊南坂教会のもと牧師である小崎道雄氏に相談をもちかけました。そのとき、小崎氏が最適任者として推薦されたのが、霊南坂教会の古い会員であった小久保政夫でした。
友人がいとなむ印刷会社を手伝っていた政夫にとって、この新事業たちあげの重要さをすぐに理解できたものの、5人の子供をもち、まもなく50歳をむかえようという政夫にとって、経験もなにもない葬儀の仕事にたいする不安やまよいにおそわれました。
当時、いちばん低い職業とされていただけに、親戚からも「なにを好きこのんでいまとなって葬儀の仕事などするのか・・・」と強く反対をうけました。
「やはり私にできるわけがない。このお話はお断りしよう」そう思っていたところ、小崎牧師夫人が政夫に次の言葉をかけてくださいました。
「 2人の子供を亡くしたあなたなら、家族を失った遺族のかなしみがだれよりも理解できるはず…」
その言葉がキリスト者としての使命をふるい立たせ、この道をあゆむ決意をさだめてくれました。
「自分もかれこれ50の坂に手がとどく。ここでほんとうに神様と人のために打ちこんでみよう…」
政夫がこの仕事をとおして生涯のすべてを神様にささげる決意をした瞬間でした。
ところが、葬儀について経験もなにもない素人だった政夫は、どうすればこの事業へのあしがかりができるのか、まったく見当もつきませんでした。いろいろ考えたあげく、まずはなにから手をつければよいかを教えてもらおうという気持ちで、助葬会をたずねることにいたしました。
そこで出会ったのは、当時の理事長である大保清吾氏で、葬儀や事業に関していろいろと親切な助言をあたえてくださいました。
ところが氏は、さらに思いがけない申し出をしてくださいました。
その申し出とは、「葬儀の仕事に必要な道具一式のレンタルと、電話の共同使用」でした。この初対面の思いがけない親切が政夫にやる気をあたえ、キリスト教葬儀社としての一歩を踏みだすことができました。
立教大学チャペルにて
助葬会内の事務所と借電話でのスタートとなりましたが、手はじめに栄光式典社開業の挨拶状を東京都内の牧師あてに送るところから始めました。それから三ヶ月ほどたったころ、初めて一本の葬儀依頼の電話が入りました。「日本基督教団下谷教会」から牧師伊崎清二氏の葬儀いっさいをおまかせしたいという依頼でした。
さあ初仕事だ、と意気込むよりもさきに、政夫は大きな緊張をしいられました。それは牧師先生の葬儀を一任されたという、一信徒としての責任でした。
故伊崎牧師の葬儀は、信徒をはじめ、都内から大勢の牧師先生が参列し、規模としては大きなものになりましたが、第1回目の葬儀ながら、式終了までの一切を立派にやってのけました。
「本当にいい葬儀でした」「まさに聖徒の召天にふさわしい飾りつけと雰囲気でした」
参加者からこんな声を聞いたとき、政夫は天にものぼる心地がし、この商売をはじめて良かったとしみじみ思えました。
けっきょく、この葬儀が都内の教会や牧師への宣伝となり、栄光式典社の名をしらせる結果となりました。
「この商売は、言ってみれば一回一回の葬儀が宣伝です。つまり言葉ではなく、実際がものをいうのですね・・・。」
一回ごとにそそがれる、小久保政夫のかわらない誠心誠意が「葬儀のときにはかならず小久保さんを」という大きな信頼へとつながり、その創業当初からの意志は今もひきつがれております。